修行と息抜きと睡眠

過去の自分と未来の自分へ残す記録

ブレインダンプ

人生のコンセプトを書き出してみた。

また師のフォローで導線を作っていただきながら。

「私の人生のコンセプトは“世界平和”です。」と言うと、「それはみんなの最終的に行きつくところだから、そこではなく、ひとつ抽象度を落としたところを考えてみてください。」とのこと。そ、そうだよな。

 

その一歩手前は何ですか?
世界平和ってどういうことですか?
今は世界平和ではないのですか?
何が達成されている状態が世界平和なのですか?

 

そこは、しいさんが大切にしている部分なはずです。

グランドラインはどのルートを選んでもラフテルに到達するが、どのルートを選ぶのかで冒険が変わります。

そのルートがしいさんの人生のテーマになるって感じですね。

 

 

こうやって考える道しるべを示してもらいながら、自分なりに書き出してみたのが以下。

 

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まあまあいけたかな、言語化できてきたでしょ。

と思っていたがやはりそんな甘いものではなかった。次は、

 

・『自分を解放する』とはどういうことですか?
・『解放されていない』とはどういう状況ですか?
・解放されていない人とは具体的に誰ですか?
・解放されていない原因はなんですか?
・その原因はだれが(何が)引き起こしていますか?

 

ああ、人生のコンセプトを言語化するのってまたブレインダンプなんだ…。しんどいけど、頑張ろう。師がスコップで私の敷地を耕してくれて、私が掌で地面を固めていくような感覚だ。

 

急に話は逸れるが、

私は今まで女の子として生きてきた。女の子らしい可愛い名前を付けてもらって、ファッションを覚えてメイクを覚えて、かわいいことで社会に迎合されることが良いこととして生きてきた。

けどそれは本当に自分がそうしたいことではなかった。他人任せで人生を進めて、自分が誰に選ばれるかで日々を送って、自分の意見や、自分の力で手に入れたい未来なんて何もなかった。

かわいくてキラキラしたものは好きだけど、本当に心から熱中できることはもっと泥臭いことだった。地面に這いつくばって虫の観察をするのが好きだし、セミだって素手で捕まえるし、恐竜が好きで熱心に調べ上げるし、鉄道が好きだし、天文学が好き。

そういう好きなことに大切な時間を捧げることができず、どうしたら人間社会で一歩先にいる人たちに目をかけてもらえるか、が主軸にあった。

 

男の子になりたかった。男の子に生まれたかった。自分の趣味に熱中して、スポーツに励んで、学校でいい成績をおさめて、友達たちと夜通し遊びたかった。大人になったら自分が好きな人と付き合って、頃合いのいい頃に自分の思うタイミングでプロポーズして結婚して、相手のキャリアを気にすることもなく適当に子供を作って、自分は仕事に打ち込む。土日は家族と遊ぶ。そんな生活を送れる男性はいいな。

でも私は女に生まれたんだから、女性としての道をうまくやり抜こうとした。

 

だけど、そういうことでもなかった。好きなものや、興味、人生観に性差なんてなくていいんだと思うようになった。

近年、女性の社会進出やジェンダー問題が話題に上がることが増えてきた。きっかけは何だか定かではないが、そのような社会風潮が後押ししてくれたのだろうか、

 

私は男でも女でもないと気付いた。

 

男でもなく、女でもなく、ただ人であるだけ。

それが一番しっくりきた。

 

男とか女とか、そういう枠に自分をあてはめて「女であるべき」「男がうらやましい」なんて思っていたけど、そんなこともどうでもいいんだ。

枠に当てはめて自分を定義する必要はない。周りを恐れずに、自分は自分の思うままで生きればいい。

 

自分で進む道を決めて生きていくことを「男性性」と思っていたんだ。

 

 

語学習得で中国語を選んだのは、日本人が憧れる英語ではないものの魅力を掴もうとした。特に深い理由があるわけではないが、今さら英語を学ぶのは気恥ずかしいという一面は確かにあった。英語に対するコンプレックス。

先の女の子に対するコンプレックスと似た感覚はあるかもしれない。

本当は英語に憧れがある。英語のキラキラした感じがうらやましい。英語ができるようになればいいのにといつも思う。別にマイナーが好きなわけではないが、一番人気のものを好きになることもこれまであまりなかったかもしれない。

 

「女性であること」と「英語ができないこと」のコンプレックスは近い。

この枠からはみ出したかった。

自分なりの選択肢を掴み取るようになった結果が、無性別と中国語習得という道なのかもしれない。

 

 

  • 『自分を解放する』とはどういうことですか?

好きなものを好きと言う。

まわりを恐れず言葉を伝える。

ジェンダーや肌の色、どこで生まれたか、は関係ない。

自分の思う自分を表現することが、自分を解放するということ。

 

  • 『解放されていない』とはどういう状況ですか?

周囲に抑圧されて、自分の気持ちや言動を制限している状況。実際にある環境の圧力や、自分自身が作っている防壁によって、身動きできない状態になっている。

 

  • 解放されていない人とは具体的に誰ですか?

自分の表現手段がない人。

言語は他者とのコミュニケーションツールである以前に、自分との対話に必須のツール。語彙や表現方法を増やすことで、自分自身の見えていなかったことに気づく。

自分自身の見えていなかった部分は何で隠されていたのか?

 

  • 解放されていない原因はなんですか?

自分の持ちうる表現方法がない。教育・教養の不足や、周囲に臆せず思想を伝える意思の不足。

 

  • その原因はだれが(何が)引き起こしていますか?

周囲の人物や組織によるが、多くは自分自身で作り上げた内的な壁に制限されている。そしてその壁を自分が作っているということに気が付いていない。自分自身のきっかけで変化のきざしは見えてくる。

 

 

ジャンル選定はシンプルにいきましょう。
自分が今、一番エネルギーの乗っかっているもの。
息をするように行動できるもの。
多少の負荷がかかるようなイベントも躊躇なく参加できるもの。
楽しくて仕方がないもの。
情報発信のイメージのつくもの、等です。

 

なんだろう、中国語かな。英語もやってみたい。けど、英語は全然自分のスキルがないから、中国語だな。広く「語学」とすると刺さらないかな。

中国語をまず3年程度かけて習得し、その後英語のフィールドに行きたいな。3年なんてきっとあっという間だ。

中国語やスペイン語の需要が高まってきているとはいえ、英語の牙城を崩すことはきっとないだろう。英語は先々習得すればいい。今は、今まさに需要が高まっている中国語を発信していこう。

 

しかし、なんだかんだ、ビジネス構築もエネルギーが乗っかっているんだよな。けど自分が発信していくイメージはついていない。まだまだ習得のみだ。

となると、中国語か。まず仮に中国語として考えてみよう。

 

ジャンルが決まった時はマーケットイン的な要素をコンセプトに入れないといけません。
読み手が価値があると感じてもらわないといけないからです。
悩んでいる相手が1番価値を感じる形にするのです。

 

悩んでいる相手が一番価値を感じる形…。またリサーチ不足が浮き彫りになってきた。

しかしふと思うが、私のコンセプトに合うターゲットは、本当に中国語界隈にいるのか?いや、いる。いることに入るが、これは多分というかおそらくほぼ確実に「語学」という界隈にいる人たちな気がする。

自分の表現方法を身に着けたい人たちだ。

 

アンチテーゼというほどではないが、私のターゲットではない人たちは「資格取得が目的の人」だ。この人たちは、自分のスコア把握のためでもあるが、主たる目的は「社会に選ばれる自分になるため」なので、私のコンセプトとは違う。

私のコンセプトは「自分の表現方法を身に着ける」「自己と他者との対話のためのツールとして語学をする」だ。

 

正直なところ、私のコンセプトでいうと、何語かは全く問わない。私はたまたま中国語を選んでいるだけで、仲間になってほしい人が何語を選んでいるかは何の問題にもあがらない。むしろそれを限定することが私のコンセプトから離れているし、それがアンチテーゼにもなり得る。

 

いや、しかしだ…

 

承認欲求を捨て、自分を理解してもらおうという気持ちをなくします。

人生をコンセプトを忘れるくらい。
それでも、結局、繋がりますので!

コンセプトの大前提ですが、コンセプトは見込み客が面白いと思えれば、それでいいんですね。

本来、自分がしっくり来ているかどうかなんてどうでもいいことなんです。
そういう意味でマーケットインと表現しました!


見込み客が価値を感じなければ、自分がしっくり来たコンセプトを作っても無駄ということです。
相手の理解しやすいように下げるだけでなく、しっかりと相手の価値になっているかどうか、ですね。

 

これを考えると、私のこの「限定しない」は自意識になってしまう。これはビジネスではなく趣味になる。

なので、「本来、仲間としては何語を学習していても問わないが、この場では中国語を特化している人たちで集まりましょう」とするのがよいか。

 

繰り返しになりますが、
ビジネスですから。
ビジネスは売れないと価値提供できないのです。

なので抽象度はぐっと落としましょう。
ここが気をつけなければいけない所ですね!

 

私の弱いところは、なぜ中国語なのか?というところ。ここの尖ったメッセージを伝えられたらなあ。強烈なインパクトがない。ただ、やってみたら好きになったというだけ。「やってみよう」はメッセージになるかな。

 

語学を学ぶことで、政治の解決につながるんじゃないかと思っている節はある。相手の言語で対話することで、相手の気持ちに寄り添うことができる。

植民地政策も、伝わらない言語間で行われたりしていたんじゃないかな。

相手を知ることの大切さを伝えていきたい。